2000年4月  『眞 宗』 に掲載             注)入園者の数等は当時のものです。


ハンセン病はいま(32)

「権利擁護」 ―役に立たない存在―

森田 隆二 (奄美和光園)

 私は奄美和光園の「森山一隆」です、と自己紹介してもピンとこないかもしれません。「森山一隆」は私の本名ですが日常では「森田隆二」と名乗っているからです。これが「らい予防法」なのです。

と一昨年10月の真宗大谷派との交流集会で自己紹介したわけですが、あれから一年余りの歳月がたちました。
 先ず始めに、園の概況を簡単に説明します。和光園の開園は昭和18年4月5日です。敷地面積129.945uで入院定床124床、「医療法定床」176床です。交通の便としては市内からバスで10分、空港からバスで50分の有屋の里にあります。入園者数110名の全国13園の中でも最も小規模な療養所です。
 私と真宗大谷派との出会いは1997(平成9)年に当園に来園されました玉光順正氏との出会いからです。それに一昨年10月の交流集会で、これだけの真宗大谷派の人たちが私たちの人権問題を取り組んでいることを知り、私はこれまで30年余り何をしてきたのかと、考えさせられました。自分に問うということもせずに、ただ傍観していたことを知らされた交流集会でした。
 それでは私のことを少し紹介します。昭和43年7月26日、和光園に入園したのは、私がちょうど19歳の時でした。私の実家は和光園から車で20分で行ける所にあります。あれから30年余りの歳月がたち、今では両親は他界し、兄弟はそれぞれ結婚し独立しています。たった「ひとつの法律」で30年余り「隔離」されてきました。なぜ隔離されてきたのかと申しますと、療養所しか治療ができないよう、国の誤ったらい政策があったためです。私は入園後5年ほどたったころに現在の妻と結婚しました。園で結婚すると外(社会復帰)には出られないと先輩の方が言われたのが、昨日のように鮮明に思い出されます。
 結婚後は作業員・大工・運転手などいろんな職に就きました。そのころ私はまだ20代で、社会復帰の意欲があり、タクシーの運転手をしていた時のことです。当時の園長先生を偶然に乗客として乗せたところ、翌日内科に呼ばれ、仕事を辞めるように勧告されました。その後何回か「らい予防法」を理由に会社を解雇されたこともありました。それは就職してはいけない法律「就業の禁止」があったからです。それから、私はハンセン病関係の本を読みあさって勉強し、今では人さまの前でハンセン病のことを少しは話せるようになりました。話が前後しますが、私が入園した時は、既に外来治療が行われていた時代で、既にらいは治る病気になっていたのです。つまりハンセン病の療養所には初めから人権等はなかったと言っても過言ではないと私は思います。そこで始めのタイトルに書いてありますように「権利擁護」アドポカシーについてふれてみたいと思います。アドポカシーと障害者問題との関わりでは「権利擁護」と訳されるのが一般的です。障害者はこれまで、病人と同じ役割(社会的責任の免除と治療への専念の義務)を担わされました。医療スタッフの管理のもとで「役に立たない存在」としてみなされ、無為に日々を送らされてきたのです。私たちもまた、いったんハンセン病に罹患すると社会から役に立たない存在に置かれて来ました。社会の底辺でしか暮らせないような仕組みになっているのが、今日の療養所なのです。
 ひとつの例ですが、昭和41年に厚生指導として、第1期生10名の入園者に自動車教習を実施したり、また、紬の職工として女性約20名が技術を身につけましたが、社会復帰に結びつきませんでした。それは療養所に厚生指導として、囲いの外から多くの予算が投げ込まれてきたと思いますが、所詮「囲い」の中での厚生指導にしかならなかったからなのです。
 このように、権利擁護という名のもとに「役に立たない存在」として、人間あつかいしてこなかったということがあると思うのです。
 前にも述べましたが、早くから沖縄ではハンセン病は治る病気として受けとめられていました。昭和36年には在宅治療が開始されていて、その3年後には療養所から社会復帰した人に対して「後保護指導書」が開設されました。それは「囲い」の厚生指導ではなく、職業指導や健康管理、そして職業あっせんを目的とした自立するための施設なのです。沖縄が本土に復帰する時には在宅治療制度の継続に論議があったようですが、「沖縄振興開発特別措置法」という法律によって結局続けられることになりました。沖縄の場合、積極的に地域が参加した形を早くから取り入れたにもかかわらず、平成8年まで「らい予防法」があったのです。
 現在、こうしたさまざまな人権侵害に対して、私は「らい予防法違憲国家賠償訴訟」の原告代表という形で活動しています。
 今思うことは、らい予防法が廃止されて4年の歳月が経とうとしていますが、国(厚生省)は真摯に人権とは何なのかを自ら示してもらいたいと願っています。
 最後になりますが、一昨年の交流集会での採決「一人ひとりの京都宣言」を思い浮かべる時、私の残された人生をとおして、ハンセン病の差別と偏見を取り除く啓発活動を実践していかなければならないと思っています。


 

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