『ふれあい福祉だより』第4号―2007―に「社会復帰1年」というテーマで寄稿しました。ご一読ください。


回復者の皆さん、前に向かって歩みましょう!

国立療養所奄美和光園退所者 森山 一隆


 私は昨年11月末に奄美和光園から正式に社会復帰いたしました。森山一隆と申します。1948(昭和23)年7月5日生まれ、今年で59歳になります。入園年月日は昭和43年7月26日です。その日の事は一生脳裏から消えません。その事自体が私の人生です。

 「ハンセン病が治る時代」とは、平成8年の熊本判決で1960(昭和35)年、遅くとも本格的な時代は昭和40年代とも言われています。私が入園した昭和43年にはすでに治る時代になっていたのです。日本の医師たちは治る病気だと知りながら、何十年と必要のない隔離を続けてきたことになります。20歳で入園してからこれまでのブランクをいったいどうすればいいのか、ひとり日々考えている昨今です。90年に及んだハンセン病隔離の法律はなぜ廃止されなかったのか、悔やまれてなりません。

 入園時に私は氏名を変えるように医事係から言われました。詳しい意味は後から知りましたが、森田隆二という氏名にいたしました。
 約一年間ハンセン病の治療をし、その後は老人と二人の相部屋で一年余り生活を共にしました。しかしその後、別の輩の勧めで、直ぐに治らない病だと言われ、園内で大分年齢が離れた女性と結婚し、昨年の11月まで園内で暮らしていました。私が入園後始めて外泊したのは、父の危篤の知らせで実家に帰った時でした。父は脳梗塞で倒れ快復する事なく他界しました。<これがハンセン病患者の隔離というものなのだ>と知り、愕然としました。そして葬儀が済み、私が帰園する前の晩に母は、父のオバから私の器は別にしなさいといわれていたことを話してくれました。母はオバの言う事は聞かなかったようですが、ハンセン病隔離の矛盾をこれでもかというほど突きつけられ、そのことが後に自治会役員をはじめとする諸活動や、ハンセン病関係の本を端から購入して学ぶ原動力になりました。60歳に近い年齢で社会復帰を決意したのは、わが国の悪法「らい予防法」の誤りを今後は啓発活動という形で発信して行きたいという理由もありました。現在はハンセン病学会員のほかホームページを通じての情報発信など、ハンセン病の差別・偏見解消のための活動を行っています。

 私は8人兄弟の一番下で、父母は機会を見てはよく面会に来てくれました。当時はバスにゆられて1時間近い道のりでした。現在家族はバラバラで、私の復帰を心から喜んでくれる人はいません。私は社会復帰する際、兄弟の住む町から離れた別の町に住居を定めました。現在、和光園へは国道58号線本茶バイパス(トンネル)を通って市街地から5分程度で着きます。アルバイトのため朝晩園の傍を通るたびに、何故あんなに長い年月のあいだ園内生活を続けていたのか、不思議でなりません。たまに園の外来受付に電話し薬を頂きに行きますが、今考えると遠い昔話のようにさえ感じられます。
 在園中は自治会活動のほか労務外出等が私の仕事でした。特に自治会会長時には「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」に、和光園から妻と共に第4次提訴に加わりました。自治会長の職は辞し、熊本地裁に通う日々が続きました。その後「全国ハンセン病療養所入所者協議会」の役員として東京に赴任。二年前に辞任して和光園に帰園してからは社会復帰を視野に入れながら準備をし、鼻2回、足2回、腕の尺骨神経の手術と計5回の整形を受けました。
そして一昨年、県の里帰り事業に参加した折に、福祉室長と二人で鹿児島県保健福祉部健康増進課の担当職員に県営住宅の依頼をしました。県の対応はすばやく、後日担当職員が園に来て空室があるので見ていただきたいという事で、担当職員と福祉室長、私の三名で部屋を見に行き、すぐに決めました。鹿児島県では、「ハンセン病回復者」への県営住宅受託等はすでに準備されていました。他の県は詳しい事は知りませんが、県の機敏な対応に感謝申し上げます。
 話はとんとんと進み、私は園内の妻に話をして社会復帰することで了解を得ました。復帰後の生活と医療については、福祉室長に呼ばれて園長・副園長・福祉室長から説明を聞きました。そこでの主な話は、これからも園で協力できる部分は協力するので他の部分は保険診療で行うということでした。
 当時は県健康増進課の担当職員他、和光園職員、社会復帰準備支度金の支給ではふれあい福祉協会に多大なるお世話になりました。この紙上であらためて厚く御礼申し上げます。今回は「社会復帰一年」として寄稿文の依頼を受け、当初はお断りするつもりでしたが、現在社会復帰している方々で私と同じようなことを考えている方がいるのならいくらかでも代弁出来るのではと考え、受けることにいたしました。いざ書くとなるとこんなに難しいと思いませんでしたが、現在退所者が抱えている問題を含め、私がこの一年を通して考えた事を並べてみたいと思います。

 まず第一に、これから退所する人は少ないかもしれませんが、鹿児島県では各市町村に相談窓口が置いてあります。県の方では「保健福祉部健康増進課に(ハンセン病担当窓口として)担当職員を置き、療養所入所者及び退所者の相談に応じる」とし、「退所者のための施策は特にないが、退所者が安心して生活できるよう県としてできる範囲で対応したい」としています。県の健康増進課に聞くと各市町村の相談窓口とスムーズに連絡が取れるシステムだそうです。また県営住宅の件では九州8県中7県が入居の枠(空き室)があれば可能です。
 ですからおそらく他の県においても退所者が相談できる窓口はあるものと思われますが、はたして各県の啓発活動がどれだけなされているのか、実態は明らかではありません。先日、厚生労動省疾病対策課より、退所者の「ハンセン病療養所退所者ハンドブック」の冊子が送られてきました。早速開いてみると、なんと各園の委託先医療機関名が列挙してあり、それに各県のハンセン病問い合わせ先が記載されています。私は自分の目を疑いました。なぜなら大病院では、ハンセン病の治療でなく、他の疾病の治療しか行わないのでは?ハンセン病特有の裏傷などの皮膚治療は本当に対応できるのか、不安が残ります。大きな病気の場合は大病院に紹介状を持参して治療を受けられますが、ハンセン病特有の疾病はやはりハンセン病療養所内にて治療せざるを得なくなり、療養所から遠隔地の方々の治療はどうするのかという問題もあります。ハンセン病療養所退所者と非入所者数は数千名と言われていますが、一体全体どれだけの退所者が病院の窓口に行かれるのか、問題はないのでしょうか。ハンドブック全体は素晴らしい冊子ですが、本当に退所者が安心して行けるのか、疑問が先に立ちます。

 日本ハンセン病学会・日本皮膚科学会が出した冊子「ハンセン病アトラス」に快復者医療として書かれている文を紹介すると、
 「ハンセン病療養所退所者や、療養所入所歴のない人は数千人いると考えられている。しかし、社会におけるハンセン病後遺症や再発に関する医療提供体制は未だに十分に整備されていない。
『ハンセン病に伴う後遺症』の病名についてはすでに保険病名として認められているが、快復者はハンセン病の病名公開に拒否反応を示す場合がある。現時点では、快復者の意思を尊重すべきであると考える。この齟齬を埋めるには医師などへの啓発活動だけでなく、回復者の意識の変革も必要である。
 回復者が一般の患者と同様な診察を受ける事がインテグレーション(integration 他の患者と同じ扱い),ノーマライイゼーション(normalization)に繋がる。このためには、市民、回復者、医療機関が『ハンセン病』『ハンセン病の後遺症』を『普通の病気』、『普通の後遺症』と認識していくように努力すべきである。」と結ばれています。これまでの、財団法人藤楓協会改めふれあい福祉協会等による毎年6月の「ハンセン病を正しく理解する週間」等の長年の取り組みは定着していると思いますが、一方では、ハンセン病療養所退所者のための啓発活動は未だに国民が理解する所まで達してはいないと考えます。今後のふれあい協会はじめ厚生労動省疾病対策課や各自治体の働きに期待したい一人です。

 社会復帰にあたって私は、前もって副園長に主治医を依頼し、これまで通り県立大島病院と和光整形外科に通院しています。園では月に一回定程度診察を受け、薬を頂いています。幸いこれまでの治療の延長線上にあるわけですが問題がないわけではありません。保険診療による医療費の自己負担分も予想以上に高額になり、歯科治療やちょっとした検査などにもためらいを感じてしまう現状があります。現在全国の退所者の平均年齢は70歳を越えています。医療費の負担は今後ますます生活に重くのしかかってきます。退所者が安心して社会内生活を続けて行けるよう、国による医療費の助成をぜひとも実現していただきたいと考えます。

 現在私は県営住宅にて一人暮らしですが、幸い趣味仲間に恵まれ、「キャノンフォトクラブ」奄美市支部会員になり、仲間と一緒に写真の勉強をしています。また車椅子レクダンス会員として車椅子在宅障害者と共に月1回の練習に汗を流し、昨年は何ヶ所か施設訪問にも行きました。新民謡ほか音楽好きな仲間たちとの交流も多いです。今後の夢は、パソコンインストラクターの資格を取り、趣味を活かしてさらにボランティア活動を続けて行きたいと考えています。

 最後になりましたが「ハンセン病回復者」の皆さん、今後一人ひとりが前を向いて歩んで行きましょう。


 
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